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西欧の服飾 (17世紀) : ミニ英和和英辞書
西欧の服飾 (17世紀)[せいおうのふくしょく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
西欧 : [せいおう]
 【名詞】 1. Western Europe 
: [ふく]
  1. (n,n-suf) clothes 
服飾 : [ふくしょく]
 【名詞】 1. clothing and accessories 2. attire 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
世紀 : [せいき]
 【名詞】 1. century 2. era 

西欧の服飾 (17世紀) : ウィキペディア日本語版
西欧の服飾 (17世紀)[せいおうのふくしょく]
17世紀の西欧の服飾(せいおうのふくしょく)では、17世紀のフランスを中心とする西ヨーロッパ地域の服装を扱う。
== 特徴 ==
17世紀最初の二十年ほどは、16世紀とほとんど変わらないスペイン風ファッションが主流であったが、動き辛く煩わしいフレーズ(英語ではラフ。襞襟)の軽量化や、正面が開いてブラゲット(英語ではコッドピース)という布で隠していたオー・ド・ショース(半ズボン)の両脚部分が現在のズボンと同じように繋げて仕立てられるなど改良が進められたものもあった。
この時期のファッションは、男性の場合、半ズボンやプールポアン(英語ではダブレット。上衣)に詰め物をして、女性の場合はコルセットで胴を締めあげなどでできた枠でスカートを大きく膨らませ、さらに大きな襞襟を付ける非常に動きづらいものであった。
各地で戦乱が激しくなる1630年ごろから、男性のファッションからは襞襟や詰め物が消え、アレクサンドル・デュマの『三銃士』の挿絵に描かれるような、より動きやすく自由な印象の服装が主流になる。
ファッションを牽引していたスペインは弱体化し、スペインから独立を勝ち取りつつあった新興国オランダの富裕市民の衣装が流行した。
当時マントと呼ばれたケープの一種やブーツなど農民や兵士の野外での服装だったものが、宮廷のサロンや舞踏会でも身につけられるようになった。
上衣は徐々に短くなっていき、半ズボンは膝下丈となり、運動しやすいゆとりをもたせたものとなった。
女性の場合、やや遅れて1640年代にコルセットやスカート枠が廃れはじめ、スカートを重ねて膨らませパントゥフルというスリップオン式の靴を履くより軽やかなファッションが主流になる。
コルセットはボディスと一体化するなど、ゆるやかになる。
騎士たちには長髪と髭が流行して、レースカフスやカノン(膝飾り)全身にギャランというリボン束を身につける華やかな格好をした。
その極地として、1650年代ごろからオードショースの上にラングラーヴ(英語ではペティコートブリッチズ。つまりスカートのような半ズボン)というリボンを飾ったほとんどスカートに見えるキュロットスカートを穿く流行が生まれる。
しかし、17世紀を代表するのは1661年から始まるルイ14世の親政をきっかけに生まれた、バロックスタイルと呼ばれるフランスファッションである。
フランスファッションはイタリアに素材を依存していたスペインファッションと違い、最初から国内のモード産業による利益を意識していた。
1627年に重商主義政策をとったリシュリューによって、「金襴、銀襴、レース、モール、ビロードの輸入禁止令」が出され、続いて1633年にはより厳しい「金紐、銀紐、金銀織物、サテン、ビロード、金銀刺繍、縁飾りの禁止令」が出された。
この時期のこれら贅沢な織物や装飾は、多くがイタリアなどからの輸入品であったため国の財政を守るための措置であった。
リシュリューの後を継いだマザランも厳しい禁止令を引き継ぎ、1644年には「華美なる刺繍、金銀織物の禁止令」を発布している。
マザランの後継者であり、財務総監となってフランスのモード産業の基礎を築いたコルベール(ラシャ商人の家に生まれる)は「フランスにとってのモード産業はスペインにとってのペルーの銀山である。」とモード産業の重要性を述べている。
1667年には、諸国の王や貴族の美麗な衣装への要求を満たす、リヨン王立織物製作所と王立レース工場が相次いで設立されている。
また、華麗な衣装に不可欠なシルクのための養蚕業がこのころリヨン近郊の農村を中心に軌道に乗っていた。
この時代、フランスでは1672年に最新ファッションの版画を載せた世界初のファッション誌『メルキュール・ギャラン』が創刊され、パンドラ(正装の大パンドラと日常着の小パンドラの二種がある)と呼ばれるマネキンにパリの最新流行の衣装を着せてヨーロッパ中に送り最新モードを知らしめた。
1670年ごろから、フランス貴族の衣服と言って現在連想されるような衣装、ジュストコール・ヴェスト・キュロットの一式が確立し始める。
女性の髪型や服の作りは有力なサロンの女主人(多くはルイ14世の愛人や女友達であった)に影響され、目まぐるしく細かな変化を起こしている。
新しい布地の登場に関しては、インドから輸入された華やかなプリントの木綿布「アンディエンヌ」が貴族の部屋着として大流行したほか、このインド更紗の模造品がプロヴァンスで製造されるようになった。
フランスではシルクの国産化が進んだため、キャムレット(アンゴラヤギやヒツジやラクダの毛とシルクを交織した平織の服地)やボンバジン(シルクと羊毛を交織した綾織の服地)やトビン(モアレ模様のタフタ)やカルテック(服の裏地に使う薄いシルク)などが市場に出回る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「西欧の服飾 (17世紀)」の詳細全文を読む




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